優先席



 先日、帰途の電車で(他に席がなく)優先席に座った。JR東日本の優先席には、「妊婦にも席を譲ってやれや」と表示があるので、今だけ特別堂々と座れるはずなのだが、何故か使用するたびに後ろめたさを感じる。おでこに「妊」とか書いておこうか、いや「肉」の方がもっと気の毒そうに見えるだろうか……とか余計なことを考えてそわそわしてしまう。そのため、他に空いている席があれば迷わずそちらを使うようにしている。


 さて、その日の私は車両連結部分に隣接する三人掛け優先席の端に座り、一心不乱に読書していた。ふと気づくと、私の降車駅の一つ手前の駅で停車する所だった。同じシートには、70歳程度の男性と、60代と思しき女性が座っていた。それなりに混雑しており、優先席の前にも三人の中年男性が立っていた。
 ドアが開き、乗降の人々が入れ替わり、乗車率が少し上昇した。すると、その駅から乗り込んだ一人の女性が、私の座る優先席前に立つ男性を押しのけて吊り革を掴んだ。年の頃は24、5歳だろうか。少し目の辺りがきついが、色白で可愛らしい顔立ちである。割り込まれた形になった男性は、無言で連結部まで下がった。彼女のお腹は大きく膨らんでいた。
 ああ、この妊婦さんも座りたいから優先席に来たんだな、と分かったが
(1)私は次で降りる
(2)動いている電車内で立ち上がりたくない
ので、ちょっと待ってね、の気分でいた。どこぞの特急路線と違い、この辺りの一駅区間に要する時間はものの数分である。
 しかし、再度(何かが気になり)顔を上げると、彼女が私を睨んでいる。元の顔立ちがきついのではなく、きつい表情になっているようだ。そりゃもう凄く睨んでいる。足も踏んでいないし、いい具合のくさやを持ち運んでもいないし、今読んでいる本に「バーカ」と書いたカバーをかけてもいない。確認OK。でも、不思議そうな表情を作って彼女とアイコンタクトすると、激しく睨み返してくる。ど、どうしたんだ?記憶にないけど、私はあなたの親の仇ですか?数秒の後、彼女は顎を上げて話しかけてきた。
あの!
「ハイ?」(何だろう、ドキドキ。)
ここ、優先席なんですけど!分かってて座ってるんですかっ!


 そういうことか!そうかそうか、私があんまりにもスリムなもんで(?)、普通の若い女が図々しくも座りやがってコンチキショーメと睨んでいたのか。(多分、膝の上に置いたバッグが私のハラを隠していたのだろう。)はっはっは、うい奴よのう。彼女の突撃一番槍!みたいな勢いと勘違いに笑ってしまい、私はすっかり心が広くなってしまった。
「あー、私もニンプなんです。」(自分のハラを触りつつ)
「えっ……」
 顔色を失う彼女。しかし、私の隣に座っていた女性は、あからさまに「何じゃこのクソ小生意気な小娘は!」という顔をして、即座に席を立ってしまった。さっきまで睨んでいた彼女は、今やすっかり恥じ入り、しかし私の隣に空いた席に座った。
「すいませんでした……私、ホントウに……申し訳ありません……恥ずかしいです……」
 と、ちょっとオタクっぽい口調で謝り続ける彼女。いいのよ〜、と鷹揚に流しつつ降車する私。気分は何故かお大尽。他人のミスは蜜の味。自分の心が海より広いように思えて、恐ろしく気分がいい。我ながら安上がりである。


 彼女の気持ちの分からぬでもない。きっと、今までに何度も優先席を譲ろうとしないワカモノに遭遇し、腹に据えかねていたのだろう。だからって「この人はただの(スリムで美しい)人じゃなくて、どこか座るべき理由を備えているのかもしれない」と想像するココロを失って、突進しちゃいけませんが。
 最近、こんなこともあった。
 その日は、朝病院に立ち寄ってからの出勤だった。10時前の電車は混んでおり、私は一抹の希望を抱いて優先席の様子を見た。片側のシートには、三人の眠れる老人。もう一方には、一人の眠れる老婦人と、ヘッドホンをつけた二人の眠れるワカモノがいた。おお、ワカモノよ、目が覚めたらゼヒゼヒ私に席を譲っておくれ……と思った私は、彼らの前に期待しながら陣取った。
 ワカモノAは出発後二駅目で目を覚まし、私を見た。そして、ポケットに入れていたipodを少し操作した後、再度目を閉じた。ワカモノBも、その数駅後で同じような動作をしてまた眠った。連動式のワカモノ達なのかもしれない。まあ仕方ない。できたら座りたいだけだ。(楽をしたいというよりむしろ、急ブレーキなどで転びたくないのだ。)
 しかし、ここで予想外の出来事が起こった。端の席ですやすやとお休み中だった老婦人が目を覚まし、私の袖を引くのである。
「あなた、お座りなさいな」
「!いえ、とんでもないことです!」
「まあまあ、私ね、産婦人科なの。プロの言うことは聞かないとね」
 何という説得力。それにすぐ降りるのよ、という彼女の言葉に甘え、私は席を譲っていただいた。ありがたさと形容しがたい恥ずかしさで、何故か涙が出そうになって堪えた。ワカモノ二人は一生懸命寝ていた。


 以前にはこんなこともあった。
 数年前の勤務先に、ちょっとふくよかな同僚がいた。うらやましいことに、ムネも大きい。ある日、彼女が電車で立っていると、前に座っている男性がにこやかに「どうぞ」と席を譲ってくれる。なんで?と戸惑う彼女は、数秒の後に気付いて言った。
私はニンプじゃありません
 その日、彼女の服装はAラインのワンピースだった。


 という訳で、電車の中、優先席の前に立つニンプには、できたら席を譲ってやってください。お願いします。
 優先席から離れて立っている女性は、どのように見えても多分大丈夫です。ちょっと様子を見てください。