クリスマスにはヴァイオリンを



 私は音痴である。絶対音感がないのは当然として、楽譜を見てメロディーを取り出すことができず、ポーンと一つ鳴らされた音を聞いてもそれがドなのかファなのかの区別もできない。正直、全部「ド」に聞こえる。楽器も何一つ演奏できない。カスタネットとトライアングルですら自信がない。しかし、音楽を聴くのも歌うのも好きだ。家人はやめろと言うが、口笛を吹くのも大好きだ。お気に入りの曲は「ジュラシック・パーク」のテーマと、賛美歌94番(「久しく待ちにし」)。好きな楽器はトランペットとパイプオルガン。つまり、音痴な素人なりに音楽を楽しんでいる。(「音楽」っていい言葉だ。)


 ど素人としてかねてより持っている疑問は、演奏の優劣は作品の質を左右するのだろうか?ということである。つまり、ある曲を聴いて「スバラシイ」と感じたとして、それは曲自体が良いからなのだろうか?それとも、演奏者が優れているからなのだろうか?もしくは、その両方が高レベルでないと達成し得ないものなのだろうか?
 何せ、粗末な耳である。あからさまにヘタなのはともかくとして、一通り「曲になっている」場合には、巧いヘタの判別ができない。デビュー当時の中島美嘉の歌は常に半音ずれているように聞こえたが、そうだよねーと言う人もいれば、それが素人の浅はかさと言う人もいて、やはり自分では自信がない。武田真治のサックス演奏は耳が腐ると言う人もいるが、そうなのか?と思って聞いても私の耳は無事である。とりたててカンドーもしないが。CDショップのポップに「奇跡の新人」とか書かれていても、その演奏家が他の演奏家とどう違うのか分からない。確かに美しい音だけど、それって個人の才能なの?コンディションの良い楽器や、優れた楽曲のおかげではないの?前衛音楽を聴くと時に不快になるが、それらに対する社会的評価は決して低くない。分からん。うーん、誰か私に文明の光をあてておくれ。


 そんな私にはもったいないことではあるが、ひょんなことで友人からコンサートのチケットを頂戴した。「川畠成道&東京交響楽団のメンバーによるクリスマスチャリティーコンサート2005」。
 不勉強な私は知らなかったのだが、この川畠さんという人は、今非常に人気のあるヴァイオリニストなのだそうな。幼い頃にほぼ全ての視力を失い、その後ヴァイオリンを始めたという数奇な人生を送られている方でもある。
 主な演目は、ヴィヴァルディの「四季」。おお、奇しくも私の好きな曲ではないか。「冬」の第一楽章と第二楽章が特に好きなのだ。友人に深く感謝しつつ、クリスマスイブの午後、家人と共に会場へと赴いた。
 場所は、神奈川県川崎市にある「ミューザ川崎シンフォニーホール」。去年の夏JR川崎駅前にできたばかりの、きれいな建物である。入ってまず目に付いたのが、地上階の中央部に形成された長蛇の列。コンサート入場者が並んでいるのか?と仰天したが、幸いにも同ビル内で行われている「福引」に並んでいるだけであった。それにしても、福引であそこまで大勢の人々が並んでいるのは初めて見た。何かとてつもない景品があるのだろうか?
 コンサートホールは「コロッセウム型」とでも言うべきすり鉢状で、中々面白く美しい造りである。ステージは低めで、客席からは目の高さから見るか、見下ろすかのどちらかで楽ちんだ。ステージ後方には高い天井までを覆いつくす巨大なパイプオルガン(残念ながら今回のコンサートでは使われないのだが)。椅子は座りやすく、室温も適度。うーん、快適。よく寝られそうだ(おい)。
 しかし、肝心のコンサートではほとんど眠ることなどできなかった(「夏」と「秋」を聞くといつも眠くなるので、そこではうとうとした)。すばらしかったのだ。前述のように音痴を標榜している私が言っても説得力に欠けること甚だしいが、私の主観ではすばらしかったのだ。二部構成になっており、第一部で競演したアレクサンドル・シトカヴェツキーとの連弾(って言うのか?)では、同じ楽器でも音色の違いを表現できるのか!という驚きを味わうことができた。また、立ったままヴァイオリンを弾き続ける川畠氏の様子はダンスのようで、その体力にも思わず感心してしまった。だって、観客も交響楽団も全員座ってる中、一人だけ一時間以上立ってるんだよ。
 巧いヘタは分からないままだったが、充分すばらしいと感じられる演奏を堪能した。たぶん、そういうことを理解するにはもっと「勉強」が必要なのだろう。しかし、分からなくても楽しめるし、実際のところ理解よりそちらの方が大事なのかもしれない。
 二時間近いコンサートの余韻に浸りつつ会場を出ると、地上階にはまだ福引を待つ長蛇の列が消えぬままだった。こちらの方は、何がそこまで人々を惹き付けるのか理解したいような気がした。