白夜行

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白夜行
東野 圭吾
集英社 2002-05
評価

秘密 容疑者Xの献身 悪意 分身 幻夜

by G-Tools , 2006/10/12



 全てに感想文を書かなかったが、今年は東野圭吾をよく読んだ。どれも「うまいねえ」と思いはしたが、何故かそれなりの感慨しか抱けなかった。
 予想できない悪意……それが、十年ほど前にはじめて読んだ「天使の耳」以来、私が著者の作品に(勝手に)見ている特徴である。それが時に上手く働いたり、ものによっては空回りして納得できなかったりしている、というのが全体的印象だ。「好きな作家」として名前を挙げたことは一度もないが、わざわざけなすほど質が低いと思ったこともない。
 しかし、この小説は、私が今までに読んだ著者の他作品とは一線を画している。来年1月にはTVドラマ化されるとのことだが、小説の持つ気迫と凄みと説得力を凌ぐことはまず不可能だろう。
 この話を好きだとは言わない。再読したいと思えるかどうか自信はない。だが、「すごい」とだけは断言できる。今更読む大ベストセラー。なるほど、この小説には55万人を惹き付けるだけの力がある。


 1973年、大阪。廃ビルの中で、質屋の店主が刺殺されて発見される。数人の容疑者は浮かぶものの、決め手はなく、事件は迷宮入りする。
 その事件に続く20年間が時に断片的に、時に継続して語られる中、ある男女の姿が白い夜闇の中に浮かび上がる。オイルショックの昭和から、「ツインピークス」の平成までを生きる彼らとその周囲の人々を描く、860ページの「犯罪叙事詩」。


 この小説を読みながら私が考えていたのは、「悲劇と悪意は時に魅惑的に映るものだ」と言うことだった。読み進む内に、この思いを修正することとなった。「悲劇と悪意は『常に』人々を魅了するのだ」。
 二日間、寸暇を惜しんでページを繰った。恐ろしい夢も見た。凄まじい小説である。それだけに、最後をあっけなく感じた。そこだけが少し残念なのだが、ああするしかなかったのかもしれないとも思う。

定本育児の百科

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定本育児の百科
松田 道雄
岩波書店 1999-03
評価

私は赤ちゃん 私は二歳 桶谷式 母乳で育てる本 新版 赤ちゃんのいる暮らし シアーズ博士夫妻のベビーブック

by G-Tools , 2006/10/12



 ここに来ていよいよ読む、「普通の育児書」。しかも、古典。そして、名作。育児に迷うものは来たりて読め。ここに一つの導きの星がある。




 Amazonの「今売れている本・トップ100はこんな顔ぶれ(1時間おきに更新!)」で「妊娠・出産・子育て」の項を見ると、大抵の場合上位にこの書名がある。ふうむと思い、図書館で取り寄せてみた。引き取りに行くと、カウンターの上に巨大な本がドンと置かれた。はあはあ言いながら持ち帰り、重さを量ると1.8kg。その場で読むには分厚すぎた(840P)が、これをまた返却せにゃならんのかと思うと置いてくればよかったと後悔しきりであった。
 しかし、重さの中身は密度が高く、充分読むに値する。1967年の第一刷から版と改訂を重ね、今なお古びることのない著者の金言が、今日も多くの迷える両親を救っていることだろう。少々お高くはあるが、妊娠・誕生から就学までの必要充分な範囲を網羅した内容はすばらしい。図書館返却前には既にAmazonで購入していた。(普通の本屋じゃ買いたくない。重いから。)
 これはねー、すごいよ。読んでると、松田センセイ口調がうつるよ。


 著者、松田道雄医師(1908〜98)は、戦後から1967年まで京都で小児科医を開業。在野の医学者として、患者の立場に立った医療と育児を考え続け、1960年に著した「私は赤ちゃん」を皮切りに、両親と子供のための新しい育児書を次々に発表、多くの支持を得た。中でも、本書は著者が晩年まで30年以上手を入れ続けた労作である。著者が亡くなられたのは、98年の6月だが、本書に寄せられた「あとがき」の日付は「1998年春」となっている。まさに、ライフワークの結集と言えよう。
 長年の経験に基づく揺るがぬ知識のみならず、松田医師は医学の進歩や時代の流れに伴って変わる新情報を柔軟に取り入れている。本人の弁によれば、「内容が古びないように」諸外国の小児科雑誌や医学誌を日々読み、改訂のたびに加筆したという。また、読者からの「ここが分からない」という手紙を受け取ることで、その箇所をより分かりやすく訂正するなどの作業も怠らなかった。
 実用書は時にナマモノである。出版された瞬間に、既に古い知識となることもある。松田医師の大きな努力をもってしても、これを止めることは叶わないだろう。しかし、本書の内容には決して古びないものもある。これこそが、初めての育児に迷い、周囲の無責任な言葉に傷付き、自信を失いやすい若い両親を支える柱となっている。それは、彼らを励ます医師の言葉である。
 「まえがき」に当たる「この本のよみかた」によれば、「一度に全部よむにはおよばない。1ヶ月になったら1ヶ月のところを、1歳になったら1歳のところをよめばよい」とのことだが、読みたがりの私はとりあえず満1歳までをさらりと読んだ。そして、その最後「311.お誕生日ばんざい」と銘打たれた文章を読み、感動の余り泣いた。ついでに手帳に書き写した。


 誕生日おめでとう。
 1年間の育児で母親として多くのことを学ばれたと思う。赤ちゃんも成長したけれども、両親も人間として成長されたことを信じる。
 1年を振り返って、母親の心にもっとも深く刻み込まれたことは、この子にはこの子の個性があるということに違いない。その個性を世界中で一番よく知っているのは、自分において他にないという自信も生まれたと思う。その自信を一番大切にして欲しい。
 人間は自分の生命を生きるのだ。いきいきと、楽しく生きるのだ。生命を組み立てる個々の特徴、たとえば小食、たとえばたんがたまりやすい、がどうあろうと、生命をいきいきと楽しく生かすことに支障がなければ、意に介することはない。小食をなおすために生きるな、たんを取るために生きるな。
 小食であることが、赤ちゃんの日々の楽しさをどれだけ妨げているか。少しくらいせきが出ても、赤ちゃんは元気であそんでいるではないか。無理にきらいなご飯をやろうとして、赤ちゃんのあそびたいという意志を押さえつけないがいい。せきどめの注射に通って、満員の待合室に赤ちゃんの活動力を閉じこめないがいい。
 赤ちゃんの意志と活動力とは、もっと大きな、全生命のために、ついやされるべきだ。赤ちゃんの楽しみは、常に全生命の活動の中にある。赤ちゃんの意志は、もっと大きい目標に向かって、鼓舞されねばならぬ。
 赤ちゃんと共に生きる母親が、その全生命をつねに新鮮に、つねに楽しく生きることが、赤ちゃんのまわりをつねに明るくする。近所の奥さんは遺伝子の違う子を育てているのだ。長い間かけて自分流に成功しているのを初対面の医者に何がわかる。
 「なんじはなんじの道をすすめ。人びとをしていうにまかせよ。」(ダンテ)


 かくありたい。

誘惑多き浮世の年の瀬



 ダイエット中である。
 ちょっと前に生クリームにはまったせいか、11月の検診で「今はまだ大丈夫だけど、このままのペースで体重が増えるとよろしくない」と言われてしまったのだ。以降、辛く厳しい食事制限の日々が始まった。


 まず、量を減らした。これくらい食べたい……という量を皿に盛り、それを半分にする。(残りは家人の皿か、翌日の弁当か朝食にスライドする。)慣れてくると、最初から少ない材料・小さい皿を用意できるようになった。減塩にも励まねばならない(足のむくみ・つりの原因になる)ので、スープは浮いた油を除いた後に具だけを食べる。
 次に、調理法を変えた。焼き・炒めを減らし、茹で料理を増やした。揚げ物を作らぬ訳ではないが、そういう時にはいつも以上に量を減らすようにした。
 そうなると、自然と材料も変わってくる。野菜でお腹を満たそうとするので、肉は添え物程度となり、芋や豆などが増える。豆腐屋の常連になる。茹でるだけで使いやすい、ほうれん草と小松菜の購入頻度が上がる。噛むことで満足感を得ようと、ご飯も玄米に変えた。弁当箱の中身がアースカラーになった。
 そして、とにかく生クリームとその他甘味を避けた。どうしても甘いものが食べたい時(しょっちゅうある)は、まず果物を選ぶようにした。次は和菓子である。それも、一度に一つだけと厳に命じた。どうしても誘惑に勝てぬ時は、一口かじって後は捨てた。もったいないオバケが出そうだが、そうでもしなけりゃ瓶の蜂蜜をすすりそうな勢いだったのだ。
 血の滲むような努力(この程度で?とお思いでしょうが、元が食いしん坊なもので)の末、12月の最初の検診ではわずかながら体重が落ちた。胎児の成育は順調である。前回と同じ助産婦さんから「がんばりましたねえ」とのお言葉を頂戴し、思わずガッツポーズ。しかし、助産婦さんは続けた。
「このままのペースで、がんばってくださいね。最後の1ヶ月は特にね」
 こ、このまま?
 クリスマスケーキの時期も?
 年末年始のごちそうシーズンも?
 バレンタインデーのカカオ薫る季節も?
 病院からの帰り道、タイヤキの匂いで気が狂いそうになる私なのだった。


 家人は「そこまでしなきゃダメなの?」と疑問なようで、食事中の私に「もっとお食べ」と言う。気付くと肉や魚が私の皿に移動している。最後の一個を譲ってくれる。食べてるから大丈夫だよ……とありがたく断るのだが、どうも私が極端に走っていると思っているようである。低カロリーを心掛けてはいるが、三食きちんと取っているのだから問題はないのよ。
 しかし、耐えているがゆえに「誘惑」を恐ろしいほどに強く感じるのは事実だ。荒野のイエスもかくや……とか言うとバチアタリだろうか。
「アナタが本当にメシヤ(救世主)ならば、この岩をパンに変えてみるがいい」
「いや、どうせなら定食屋を開業しよう」
「なんで?」
「『めしや』ってことで」
 バチアタリついでだ。
 ともあれ、材料を見てヨダレを垂らすところまでは行っていないが、「できあい」のものに心惹かれると危険である。なけなしの決断力をフル稼働して見ない振り。(ちなみに食いしん坊血統の一員である我が姉は、子供の頃に牧場の生きている牛を見て「おいしそう」と言ったことがある。このレベルにはまだまだ達していない。)


 そんな折、家人が一冊の雑誌を携えて帰宅した。それは、「BRUTUS」。特集は、「日本一の「手みやげ」はどれだ!? 」。
http://www.brutusonline.com/brutus/issue/index.jsp
http://shop.goo.ne.jp/store/magazine/gds/00569/?
 手土産……それは日本ではほぼ100%食べ物である。その内の、特においしいものをピックアップしたリスト……何故そんなものを私に見せるのだ。
パークハイアットデリカテッセンのコレかわいいと思わない?このブタの絵がいいよねー」
 などと家人は無邪気にオトメなことを言っているが、私はもう口の中が唾液で充満しているので返答できない。餡子たっぷりの和菓子、しっとりとしたバウムクーヘン、山盛りご飯に熱々カレー、高くそびえるハンバーガー、湯気に煙る肉まん、中身がみっちり詰まった焼き菓子、パンに塗っていただきたいバターやペースト類、オレンジ香るパネトーネ、冬のオススメ生チョコレート……わあああああああああああ、全部食べたい、ぜんぶ!
 自宅用に買ってしまうと、全部きれいに平らげてしまうだろう。だから、ここは一つ正しく「手土産」としてどなたかのお宅に持参し、そこから上品に一人分だけいただきたいものである。年末年始、もし私がお菓子を持って訪問してきたならば、どうか「おもたせをお出しするのは失礼ですから」とか言って違うものを出したりせず、持ってきたものを食べさせてください。ちょっとでいいんです、ちょっとで。あ、お茶もください。膨れますから。
 そんな妄想を抱きつつ、欲しい商品の買える場所を検索する年の暮れ。探すだけですよ。ほら、大丈夫になってから食べられるようにね。一番食べたいもの(御室/さのわ)は、京都に行かねば入手できぬらしい。良かった良かった。ん?お取り寄せできますって……?

死神の精度

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死神の精度
伊坂 幸太郎
文藝春秋 2005-06-28
評価

魔王 チルドレン 砂漠 アヒルと鴨のコインロッカー ラッシュライフ

by G-Tools , 2006/10/12



 伊坂幸太郎という人は、キャラクタ設定に恐るべきセンスがあるように思える。独特の奇妙な状況を創出してもいるのだが、やはりその作品の魅力は登場人物の性格にあろう。ある特性を強調した人物を物語の要所要所に配置した段階で、小説の生命力がぐんと上がっているような気がするのだ。




 本作の主人公は、ある一人の「死神」。天本英世とかじゃなく、正真正銘の職業死神である。死神組織に属し、情報部の指示で、「死すべき運命」の人間が指定の日に死ぬべきなのかどうかの最終調査をするのが彼の役割だ。「可」か「不可」かを報告した後、その結果を見届けて業務は終了する。
 必要な情報以外は世間知らずで、暗喩や慣用表現などのレトリックを時折言葉通りに取って混乱する。「人間らしい」感情は持ち合わせない(人間じゃないからね)が、唯一「音楽」だけは人間が作り出したものの中で価値があるとして、強く愛している。
 そんな彼(人間名は「千葉」)を狂言回しに据えた連作短編集である。何せ「人間じゃない」ので、容姿も年齢も各話(仕事)で変えられる。クライムサスペンス風あり、吹雪の山荘の密室ミステリありとストーリーのバリエーションも豊か。なるほど、うまいことを考えたものだ。
 しかし、それぞれの話は(それなりの水準には達しているものの)さほどのものでもないかな……と思いつつ、それでも最後まで読んだ。だが、全て読み終えた時、私は充分に満足していた。なるほど、これは私が読みたかった物語だ。自分では分かっていなかったけれど、伊坂幸太郎はそれを知っていたのだろう。やっぱうまいわ。

月夜の晩に火事がいて

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月夜の晩に火事がいて
芦原 すなお
東京創元社 2005-01-22
評価

雪のマズルカ 安楽椅子探偵アーチー 嫁洗い池 ミミズクとオリーブ あきらめのよい相談者

by G-Tools , 2006/10/12



 「雪のマズルカ」にも登場した、「ふーちゃん」こと山浦歩が主人公の探偵小説。出版の順序で行けば、「マズルカ」が本書の続編ということになる。
 作者お得意のお国言葉の会話文は軽妙洒脱で力の抜けたユーモアに溢れ、読みながら噴き出すことは一度や二度ではなかった。しかし、物語の底を流れるのは、それぞれの登場人物の静かな悲しみである。しみじみと味わうべし。




 山浦歩(アユム)は、高田馬場の乾物屋の二階に事務所を構える探偵である。覇気に乏しく、竹久夢二描く美人画の女みたいな情けない目をして、てれってれっと歩く中年男だ。探偵のくせして、(拳銃を持っていないのは当然としても、)運転免許も持っていない。しかも、五年前に妻を失って以来、元から細かった神経の調子がちとよろしくない。現実と非現実の差が曖昧になったり、記憶が定かでなかったり、五官の入力が正しく認識できなかったりするのだ。
 そんな彼の元に、ある日怪しい手紙が届く。「どんぐりと山猫」みたいな怪文書は、二十年間離れていた故郷の町、そしてそこで起きる不思議な事件へと彼を誘うのだった。
 横溝正史モノのような、ある旧家が強い力を持つ田舎町や、その旧家の複雑な人間関係(家系図付き)が語られる一方、出て来る人々がことごとくトボケているのが味わい深い。(この調子で「八つ墓村」を書き直してくれないだろうか?)
 もう一つ横溝風味なのが、「予告状」に書かれるわらべ歌である。


 月夜の晩に
  火事がいて
   水もってこーい
    木兵衛さん
     金玉おとして
      土(ど)ろもぶれ
        ひろいに行くのは
       日曜日


 表題にもなっているこの詩通りに事件が起きる。月夜の晩の火事……そして、死体。さて、頼りなく情けない探偵は、この事件を解決できるのだろうか?
 2年かけて連載された作品のためか、やや冗長な部分があり、また登場人物の性格上やはりくどいところはあるが、集中して読むことができた。読み終えた今、私はうどんが食べたい。


 本作で特徴的なのが、方言を多用する会話文である。また、登場人物全員がもーしゃべるしゃべる。読んでいると、聞いたこともない四国方言を話せるような気分になってくる。うつるんですな。段々自分の喋り言葉を乗っ取られてしまう。
 中でも、「イミコさん」というおばさんが用いる特殊な日本語の感染力たるや凄まじく、わざとではなくともいつのまにやらイミコさんになってしまうのである。こればかりは、実際に体験していただかねば説明しかねる塩梅かと思わぬでもありませぬ。


 私はこの人の書く文章がホントーに好きだ。あんまりにも好きなので、作者本人とも気が合うんじゃないかと思い始めるほどである。有名人のストーカーになる人の気持ちが少し分かる。いや、少しですよ少し。
 さらに妄想が進むと、もしこの人が夫だったら……とか考え始めて、かなり危険である。しかし、我々が同じ家の中にいたら、互いに技巧を凝らし、無神経の限りを尽くして「自分がいかに繊細か」を語り合いそうな気もする。それはそれで鬱陶しいだろうな……と妄想でもって妄想に幕を閉じるので、作者は私につきまとわれずに済むのであった。めでたしめでたし。

雪のマズルカ

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雪のマズルカ
芦原 すなお
東京創元社 2005-10
評価

月夜の晩に火事がいて あきらめのよい相談者 安楽椅子探偵アーチー 桜宵 雨鶏

by G-Tools , 2006/10/12



 「ミミズクとオリーブ」で久し振りに再会した作者による、それとは全く異なる探偵小説。「ほのぼの」とか、「心温まる」とかいう描写のまるであてはまらぬ作品である。骨の髄までとことん冷徹にハードボイルド。暴力描写が苦手な方にはオススメしない。


 里子は41歳の元保母にして未亡人。現職は探偵だ。亡夫の営んでいた探偵事務所を引き継いで3年、今ではそれなりの評判も得ている。夫が他に残したものは、心の傷と古いリボルバー
 明朗ぼったくり会計で、顧客は自分で選ぶという経営方針。ユーモアも情もあるが、それを披露する相手も自分で決める。媚びず、迷わず、へつらわぬ女探偵の行く道に、静かに雪が降り積もる。
 表題作を含む4篇によって構成される短編集。小学館から刊行された「ハート・オブ・スティール」の改題・文庫化。


 さて、冒頭で書いたとおり、実に固ゆでな小説である。主人公はとても「いい性格」の女探偵。若竹七海描くところの葉村晶をより皮肉屋に、さらにブッキラボーにしたような設定である。先日読んだ「逃げる悪女」(ジェフ・アボット)のエレンも思い出した。老いを感じ始める年齢で、なお戦い続ける道を選んだ女性の姿が重なるのだ。
 そして、描かれる事件は過酷で陰惨で凄まじい。正直、繊細な私は少しキモチワルクなった。しかし、読むに値する残酷さであることも確かである。
 思えば、ほのぼの謎解きミステリだった「ミミズクとオリーブ」にしても、事件そのものには慄然とするような悪意が垣間見えたものだ。本作では逆に、悪意と苛烈さの中に時折しみじみとしたユーモアが織り込まれており、その辺りはやはり芦原すなおだなあというところ。
 好みは分かれるだろうが、私は一息に読み終え、そしてしみじみとした思いを噛み返した。だが、全てをぶち壊すあとがきまで読んじゃって、なんか疲れた。誰ですか、この大矢博子というはしゃぎ過ぎの人は。もうちっと落ち着いた文体でお願いしますよ……。